「文化の日」を「明治の日」にしたい安倍晋三と日本会議。なぜ彼らは大日本帝国憲法を復活させたいのか?

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出典元:「明治の日」推進パンフレット

11月3日は「文化の日」の祝日です。

「文化の日」という名称を気に食わない人たちがいます。

その筆頭にあがるのが「明治の日推進協議会」です。上の画像は「明治の日推進協議会」が作成したパンフレットです。

彼らの主張は、11月3日は明治天皇の誕生日であり、重要な日にも関わらず「文化の日」というよく分からない名前をつけるな。明治天皇の功績を称えるためにも「明治の日」という祝日名が相応しい。彼らは「文化の日」を「明治の日」に改める活動しています。

このような右翼的な主張する「明治の日推進協議会」の役員は、ほとんどが「日本会議」です。日本会議とは、安倍政権の柱となる憲法改正勢力です。

出典元:菅原経産相辞任で「統一教会がらみ」閣僚は10人に。安倍内閣と統一教会の関係を読み解く

日本会議のメンバーは国民主権を邪魔物扱いをし、天皇主権国家のために改憲しようと必死です。以下のYouTube動画で『国民主権、基本的人権、平和主義を削除しよう!』 という発言にそれを見て取れます。

国民の権利没収改憲ムービー 憲法改正誓いの儀式

安倍晋三と日本会議は憲法を改正し、「象徴」という地位に落ち込んでしまった天皇の権威を復活させ、戦前の大日本帝国憲法時の天皇中心の国家をつくろうとしています。「文化の日」→「明治の日」の改名運動に、そのような明治の価値観が色濃く反映されています。

「文化の日」が「明治の日」に? 安倍首相と日本会議が推し進める大日本帝国憲法と明治の価値観の復権運動より少し長くなりますが引用させて頂きます。

きょうは明治天皇の誕生日であり、戦中の1926(昭和2)年に「明治節」が制定された。「明治の日」に改めようと祝日法改正を目指す団体「明治の日推進協議会」は〈明治時代を振り返ることを通じて国民としてなすべきことを考える契機にした方が良い〉と主張。同団体が昨年11月1日に国会内でおこなった集会では、自民党から安倍首相に近い議員ら12人が駆けつけた。参加した自民党議員の発言を朝日新聞から拾ってみる。


「神武天皇の偉業に立ち戻り、日本のよき伝統を守りながら改革を進めるというのが明治維新の精神だった。その精神を取り戻すべく、心を一つに頑張りたい」(稲田朋美前防衛相)


「神武創業の原点にしっかり立脚した『明治の日』を実現していくことが、日本人の精神の独立につながると確認している」(高鳥修一衆院議員)


 神武天皇が実在したと本気で考えているのだろうか。読むだに頭がクラクラしてくるが、これこそが安倍政権の目指す国家像なのだろう。それは、戦後日本を否定して、明治憲法下の日本へ戻すということだ。


 数々の侵略戦争によって多くの国の人間の命と自由を奪い、日本自体も滅亡の危機に追い込んだ「大日本帝国」を取り戻したいとは正気の沙汰とは思えないが、こうした明治日本への憧憬、回帰願望は単なる懐古趣味と笑っていられる状況ではない。実際に、「明治を取り戻す」動きが本格化しているからだ

(中略)

ことあるごとに安倍政権が繰り返す、明治日本=大日本帝国の正当化。そのもっとも象徴的な動きが、2015年7月「明治日本の産業革命遺産」の世界遺産登録へのゴリ押しだ。


 この世界遺産登録については、安倍首相は幼なじみでもある発起人の女性に「君がやろうとしていることは『坂の上の雲』だな。これは、俺がやらせてあげる」と語るなど、安倍政権の強い意向が働いていたことが明らかになっている。その背景に、明治日本の近代化を誇り大日本帝国の植民地主義を正当化、アピールしようという意図があったのは明らかだ


 事実、安倍首相は戦後70年談話のなかで、明治の日本と日露戦争について、以下のように語っている。


「百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、十九世紀、アジアにも押し寄せました。その危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました」

明治日本の植民地主義を正当化し日露戦争を良い戦争だったなどと語る安倍首相の歴史観は看過しがたいものだが、安倍政権はこうした明治=大日本帝国賛美の施策を次々と打ち出しており、「明治の日」への祝日法改正運動はそれとリンクした動きなのである。


 実際、「明治の日推進協議会」は、かつて「昭和の日」(4月29日)実現運動を推進したメンバーを中心に2011年に結成。役員にはジャーナリストの櫻井よしこ氏や、安倍首相のブレーンの一人とされる伊藤哲夫氏(日本政策研究センター代表)のほか、代表委員に百地章氏(日本大学法学部教授)、所功氏(京都産業大学法学部教授)といったお約束の日本会議系学者も名を連ねており、日本会議の別働隊といってもいいだろう。

 4月29日は昭和天皇の誕生日であり、1988年までは「天皇誕生日」だった。それが、昭和天皇の崩御によっていったんは「みどりの日」となった。「自然に親しむとともにその恩恵に感謝し、豊かな心を育む」というのがその趣旨だが、そこには生物学者であり自然をこよなく愛した昭和天皇を偲ぶ意味も込められていた。ところが、極右勢力にとっては、それが気に入らなかった。そこで、神道政治連盟などが中心となって運動が起こり、「みどりの日」を「国民の休日」だった5月4日に無理やり移動させ、4月29日の「昭和の日」を押し込んだのだ。このときとほぼ同じ人たちが、「明治の日」実現のために集まっているのである。


 明治憲法と日本国憲法の最大の違いは言うまでもなく主権者が誰かということだ。明治憲法下では天皇が主権者だった。だから、「神聖にして侵すべからず」存在である天皇に関することが祭日になっていた。戦後、天皇は人間宣言をして、日本は新憲法のもと国民主権の国家になった。それに伴い休日も天皇中心の祭日から、「国民こぞって祝い、感謝し、記念する」国民の祝日へと変わった。これを旧に戻すということは、国民主権の否定にほかならない。

4月29日は昭和天皇の誕生日です。 4月29日だった「みどりの日」が「昭和の日」になったのも「明治の日推進協議会」(=日本会議)の動きがあったからです。

また10月23日は元号が慶応から明治に改められた日であり、2018年10月23日には明治150周年を祝う式典が開催されました。

政府は各省庁、各地方自治体の総力を挙げて明治150年記念の活動をしています。

国における特色ある「明治150年」関連施策
地方公共団体における特色ある「明治150年」関連施策
民間団体における特色ある「明治150年」関連施策

明治時代と言えば「明治維新」。

「明治維新」と言えば、ネット上では「明治天皇替え玉説」「田布施システム」が有名です。

出典元:https://matome.naver.jp/odai/2140936478223317401?&page=1

山口県の小さな町「田布施」から、なぜか多くの首相や重要人物が輩出されています。

伊藤博文をはじめ、岸信介、佐藤栄作、安倍晋三は、この田布施一味の末裔です。

出典元: NAVERまとめ「田布施システム」と明治天皇替え玉説

明治維新後、田布施出身の多くの志士が明治政府の重要なポストに就くこととなります。そしてその流れは受け継がれ、現在の安倍首相へと繋がっているようです。この明治維新から受け継がれてきた一連の流れは、「田布施システム」と呼ばれています。

NAVERまとめ「田布施システム」と明治天皇替え玉説

長州藩は長年、南朝の末裔をかくまってきたという。

NAVERまとめ「田布施システム」と明治天皇替え玉説

桂小五郎・伊藤博文ら長州の志士たちは、この南朝の末裔を天皇にして政権を取ろうと考えた。

NAVERまとめ「田布施システム」と明治天皇替え玉説

南北朝時代の後醍醐天皇の第一皇子である護良親王の息子の光良親王の子孫で地家氏(後の大室寅之助の生家)という家系があって…天下を取った時の”隠し玉”として大切に匿われていた…この地家寅之助は、この後、同じく護良親王の末裔である周防の国の田布施というところにある大室家に養子に入り大室寅之助と名乗りました。

NAVERまとめ「田布施システム」と明治天皇替え玉説

さらに鬼塚氏は興味深いことを書いている。明治天皇の生母とされる中山慶子つまり孝明天皇の種をもらった女性の墓が東京・文京区の豊島ケ岡墓所にあるところがこの明治天皇の生母の墓を、明治天皇を始め皇族まで誰も参拝に行っていないのだという。現在の中山家当主は、鬼塚氏の問い合わせに「生母に関 しては箝口令がしかれていて、一切答えられない」と言ったそうだ。


 これはつまり、明治帝がやはり孝明天皇と中山慶子の子ではないことの証明である。生前に明治天皇は生母に会ってさえいない。「この人間関係の冷たさ がーーたとえ生母でなくても会えばいいではないかーー日本の暗黒をより深くし、日本を太平洋戦争へと突き進ませたと思えてならなかった」と鬼塚氏は書い た。そのとおりである。昭和天皇も今上天皇もその他皇族も、孝明天皇の子孫と思うのなら、中山慶子の墓を粗末にするはずがないのだ。

出典元:山口県田布施町の怪③ 明治天皇は孝明天皇の子ではない/昭和天皇も大正天皇の子ではない

中山 慶子(なかやま よしこ、1836年1月16日〈天保6年11月28日〉 – 1907年〈明治40年〉10月5日)は、孝明天皇の典侍。明治天皇の生母

出典元: Wikipedia
出典元:Wikipedia

歴史の教科書では鎖国状態を打破した革命として明治維新を習いますが、実際は明治維新という革命で北朝の天皇が南朝の天皇へと入れ替わったというのが本質です。

明治維新の功績者として薩長同盟(長州藩と薩摩藩)が有名ですが、薩摩藩(鹿児島県)にも田布施という集落があります。この薩摩藩出身の有名人に小泉純一郎の父「小泉純也」がいます。

日本の有名政治家の出自が集中する、謎の村「田布施」! 朝鮮総連本部落札者との関係

明治維新は薩長同盟という朝鮮人部落「田布施」が起こしたクーデターです。

明治維新が田布施一族が起こしたクーデターであることが以下の動画で明らかにさせています。

【RAPT理論より】明治維新は李家(ユダヤ人)による日本乗っ取りクーデターだった。

明治維新の前にも、南朝と北朝の争いがありました。その1つとして歴史の教科書にも出てくる「南北朝時代」の北朝・京都と南朝・奈良の争いがあります。

日本には京都と奈良に天皇が二人いた南北朝時代がありました。

南北朝時代は鎌倉時代の次の時代で、西暦でいうと 1336年~1392年です。

【ざっくりとした南北朝時代の説明】

2回の元寇でボロボロになった鎌倉幕府。

後醍醐天皇は、武家・足利尊氏の力を借りて鎌倉幕府を倒す。

しかし後醍醐天皇は武家を無視した天皇中心の政治「建武の新政」を行う。

武家・足利尊氏は後醍醐天皇に反発し、兵を挙げる。

後醍醐天皇は戦いに敗れ、奈良の吉野に逃れる。

足利尊氏は京都に新たな天皇「 光明天皇 」を立てる。

こうして2つの朝廷ができました。(=同じ時代に2人の天皇)

京都を北朝、吉野を南朝と呼んで、争いが繰り返されたこの時代を「南北朝時代」と呼びます。

出典元: https://twitter.com/takenokojuku/status/954151816937193472?s=20

歴史の教科書では、南朝と北朝が対立していた時代は南北朝時代で収束し、天皇家は北朝の血が脈々と流れているとされていますが、明治維新というクーデターで、明治天皇が北朝から南朝にすり替わりました。

南朝である江戸時代の天皇家の権力は、徳川幕府(北朝の勢力)に押さえつけられていました。そのことは江戸時代の天皇の墓地である「月輪陵・後月輪陵」に表れています。日本のトップであるはずの天皇陵が窮屈な場所でぞんざいに扱われています。

〈月輪陵・後月輪陵〉
出典元: 月輪陵・後月輪陵-検証編- – 歴史あるトコ、興味あるトコ、行きませう!
出典元: 月輪陵・後月輪陵-検証編- – 歴史あるトコ、興味あるトコ、行きませう!

ここまでの話をまとめると南朝、北朝の争いは、南北朝時代では収束しておらず、明治維新では北朝から南朝へ勢力が入れ替わったということになります。以下は天皇家の系図です。

また明治維新は吉田松陰という「テロリスト」が起こしたものです。

──誰もが明治維新こそが日本を近代に導き、明治維新がなければ日本は植民地化されたはずだと信じ込まされていた。公教育がそのように教え込んできたのである。つまり、明治維新こそは歴史上、無条件に「正義」であり続けたのである。──


この本で原田さんが指摘した明治維新観は誰もが疑問を持たないでしょう

(中略)


この明治維新観は、原田さんによれば「官軍教育」で作られ教え込まれたものということになります。官軍教育とは勝者によって解釈され、綴られた歴史解釈のことです。この官軍教育で無条件に正義とされた明治維新観に根本的な疑問を投げかけ、批判をしたのがこの本です。この本は勝者の傲りへの怒りに満ちた、原田さんの「止むに止まれる想い」がみなぎった、熱い1冊です。


原田さんが追ったのは、幕末の“志士”と呼ばれた人たちの実態であり、また倒幕戦(鳥羽伏見、上野、会津、奥州等の戦争)の実態でした。


長州藩士、薩摩藩士を中心とする『尊皇攘夷』派の『志士』たち」の実態とは端的にいえば「テロリスト」というものでした。幕末のテロリストというとまず新選組の名があがるでしょう。ですがテロリストは幕府側だけではありません。倒幕派の中でも人斬りの異名をとった4人、田中新兵衛、河上彦斎、岡田以蔵、中村半次郎たちはテロリストと呼ばれていました。


ですが、彼らだけではありません。天誅を叫んで暗殺に走った無名のものや、さらには明治の顕官となった伊藤博文、山県有朋、非命のうちに倒れた西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允らも「現代流にいえば『暗殺者集団』、つまりテロリストたちであった」のです。


さらに維新の原動力となった志士、その志士たちのバックボーンともなった吉田松陰の実態も厳しく批判されています。私たちが抱く松陰のイメージは松下村塾で有能な若者を育成した教育者・思想家として知られていますが、それは「明治が成らが立してから山県有朋でっち上げた虚像」なのだと。むしろ「乱暴者の多い長州人の中でも特に過激な若者の一人に過ぎない」と。ちなみに松陰が多くの弟子を育てたという松下村塾は松陰の叔父の玉木文之進の私塾でした。松陰=松下村塾というイメージも後から作り上げられものだったのです。
(中略)
けれどその後に大きな悲劇が待っていました。二本松藩、会津藩の凄惨な闘いです。100ページにわたって綴られた闘いとその後のありようはこの本の白眉です。敗北のうえ斗南藩へと移封された会津藩の悲劇、その旧会津藩士に原田さんは「誇り高き精神の豊かさ」を見出しています。無頼・テロリストに蹂躙された旧会津人が「悲しみの堆積の上に人を魅了する花を咲かせた」のだと。


勝者(=権力者)が解釈した歴史だけでなく、勝者によって追われた人びとから見た歴史をも検証すること、それが原田さんがこの本で主張した「歴史を皮膚感覚で理解する」ことなのです。

出典元: 明治維新の美談はウソだらけ! テロやり放題でも「正義」だった黒歴史

テロリスト「吉田松陰」を尊敬する安倍晋三。自身のメルマガで吉田松陰先生と公言しています。

こんにちは、安倍晋三です。

 総理大臣に就任して1カ月。息をつく暇もなく、国会に、外交に、そして内政に激走する日々が続きました。改めてその責任の重さを実感していますが、日々緊張感をもって任務に励んでいます。

 さて、明日10月27日は、私の郷里が生んだ偉人、尊敬する吉田松陰先生の命日です。刑死される前日、安政6年(1859年)の今日、26日、松陰先生は、徹夜で遺書といえる留魂録(りゅうこんろく)を書き上げました。

 「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」


 その冒頭に書かれた辞世の句、ここに込められた気概には圧倒されます。

 松陰先生は、松下村塾で若者たちに、志を持たせる教育を行いました。ここから巣立った塾生たちが明治維新の原動力となったことは、みなさんもよくご存知だと思います。

 その一人高杉晋作は、身分を問わずに組織した奇兵隊を立ち上げ、新しい日本への改革の動きを加速させました。士農工商の身分がはっきり分けられていた150年も前の日本にあって、出自を問わず、誰もが改革に参加できる機会を与えたことは画期的だったと思います。

 ちなみに、私の名前「晋三」は、高杉晋作に由来しています。

 次代を担う若者や子どもは社会の宝です。志ある国民を育て、品格ある国家をつくるためには、教育が大切であることは、いつの世でも、どこの国でも変わりありません。家族、自分たちの住む街、国、そして命を大切にする豊かな心を育てる教育、それができる教育力の再生が何よりも必要です。

出典元:安倍内閣メルマガ[こんにちは、安倍晋三です]

そして即位礼正殿の儀が行われた2019年10月22日は祝日であり、安倍晋三は「天皇陛下万歳」を行いました。

「文化の日」を「明治の日」に改名しようとする安倍晋三が憲法改正すれば、間違いなく私たち国民も「天皇陛下万歳」をすることになるでしょう。

政治への無関心が戦前の独裁政治へと歩んでいかないように今後も情報拡散していくので、よろしくお願い致します。

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